第13回連続公開学習会「〝吉田寮と京大〟学」を2026年2月22日(日)に京大時計台記念館(京都市左京区)会議室Ⅲ(Zoom併用)で開きました。
今回は、山内隆典さん(元熊野寮生、工学部卒業)が「寮から寮へ 熊野寮建設秘話」と題して、吉田寮自治会の増寮運動の成果として1965年に開寮した京大熊野寮について、さまざまな角度から見た開寮に至る当時の経過を中心に話題提供していただきました。
冒頭、山内さんは「熊野寮の建設時、当時の学生は頑張ったが大学側も頑張った」と話しました。高名な建築学者である西山夘三が熊野寮の設計に深く関わったことは知られていますが、熊野寮の建設が実現したときの京大当局の動きを知ると、総長や学生部長をはじめ、何人もの(京大当局の中で権限を持つ)関係者がそれぞれの立場で寮生・学生のことを思いながら事態に関与したことが見えてくる、と話し、多くの資料を示しながら熊野寮の建設に至る経緯を話しました。
熊野寮の所在地である東竹屋町は、平安時代には白河北殿があり、聖護院村となった中世から近世にかけては鴨川の氾濫が多かったため畑が中心になっていました。幕末期には鴨川が氾濫する頻度が下がったようで、歌人や儒者といった文人の居宅も建てられていました。明治・大正期には、この地区は工場地帯で、鐘淵紡績(現在のカネボウ)の工場が存在感を示しました。戦争中、熊野寮の位置には同社傘下の日本国際航空工業、通称ニッコク工業の軍需工場があり、このことが長く周囲の人々の間で引き継がれ、熊野寮が建てられるときにもまだ敷地は、地域の人々から、名前の由来を忘れて「ニッコク」と呼ばれていたとのことです。
熊野寮が建てられた時期(1960年代前半)は、京大の総長や学生部長にはリベラルな人が置かれていた時代で、16代平澤総長、17代奥田総長と、芦田学生部長、山岡学生部長、西尾学生部長、庄司学生部長といった面々は、吉田寮生、開寮後の熊野寮生とよく話をし、寮生から見ると大学当局にさまざまな要求事項を認めさせることができた記憶が残る時期でした。奥田総長は退任時に「寮に始まり寮に終わる」という言葉を残したということが、京大新聞の記事に残されています。
当時、「新寮闘争」として熊野寮建設を求める吉田寮生の最優先の要求事項は、京大学生寮の収容人数の大幅な増加でした。「2000人寮プラン」といった言葉も言われた時期でした。その上で、寮生は新寮の建物設計への関与も要求し、設計を担当した西山夘三研究室が要求を受け入れました。当時の定員1人あたり建物面積の制限(1人あたり14.5平方メートル)では個室の寮は設計が成り立たず、4人部屋と2人部屋から成る熊野寮の建物構造が定まりました。収容定員は、実現しなかった3期工事分を含めると約500人でした。
山内さんは、こうした経緯を紹介しながら「熊野寮はみんなで建てたのだ」「寮は大学との絆」と述べました。
熊野寮の建設に伴い、文部省令を根拠に、寄宿料の額が吉田寮(木造)の月額100円から新寮(鉄筋コンクリート造)では3倍の金額に引き上げられることになりました。当時の京大生の経済状況などから、寄宿料の3倍引き上げに寮生は強く反発し、熊野寮開寮後の熊野寮自治会の最初の寮生大会で「寄宿料不払闘争」が可決されました。京大は熊野寮の3期工事の予算化を見送りました。現在も残る熊野寮C棟建物の端部の「将来の延長用の床と梁」は、C棟に増築の計画があったことを示しています。
山内さんは、熊野寮の話の前に、京都帝国大学の時代から新制京都大学の時代に至る、京大の学生を収容する寮の全体像を語ってくださいました。参加者の多くにとって、戦前の国策で招聘した占領地からの留学生のための寄宿舎の話や、京大において初めて学生側の要求に応えて設置された寮が「女子寮(現在ある女子寮の先々代の寮)」であったことなど、山内さんが資料を元に説明する京大の寮の歴史は知見を大きく広げるもので、「寮から寮へ 熊野寮建設秘話」というテーマが持つ意味を実感しました。
山内さんが示す歴史のエピソードに対して、参加者である各時代の元吉田寮生・元熊野寮生から、自らの体験をもとにした補足のコメントも多く出され、過去の出来事でありながら、生き生きとした光景を想像できる充実した学習会となりました。
最後に、現役の吉田寮生から、夏に大阪高裁で成立した現棟食堂明渡請求訴訟の「和解」に対応して吉田寮自治会が行っている活動内容の報告がありました。
