第11回公開学習会「〝吉田寮と京大〟学」を開催しました

第11回公開学習会「〝吉田寮と京大〟学」を5月24日(土)に京大楽友会館(京都市左京区)とオンラインで開きました。

当初予定していた講師の中尾芳治さん(元寮生、考古学者)は体調の関係で辞退され、長谷川吉典さん(元寮生、京都市環境保全活動推進協会)が「図面でみる吉田寮の百年」、盛田良治さん(元寮生、近畿大学教員)が「戦前期のアジア人留学生・再考」と題して話題提供しました。いずれも近日刊行の「京大吉田寮百年物語」(小さ子社)の筆者で、本に掲載する内容を踏まえた講演です。中尾さんのお話は次回以降に考えております。

吉田寮現棟は、1889年竣工の旧制三高の学生寄宿舎の一部(食堂や階段など)を移築して1913年に作られました。京大における現存最古の建造物であるゆえんです。長谷川さんは三高当時の図面や1915年の玄関周辺の写真、中寮火災後の再建された図面、取り壊された旧西寮の図面、食堂厨房が延焼したサークル棟火災(1996年)以前の構内図などを紹介、時代をおって樹木におおわれる吉田寮を航空写真から示しました。「自由寮」と呼ばれた三高の自由闊達な寮生活から国家エリート養成のための帝大寄宿舎への移行において「学生監」が置かれた歴史を図面からひもときました。「(110年の歴史の中で)変わっていないと言えば変わっていないが、(さまざまなことが)変化している」と話しました。

盛田さんは京都帝国大学の留学生の記録や先行研究を踏まえ、吉田寮に在寮した留学生の変遷について話しました。吉田寮については1915年から留学生の記録があり、32年から40年にかけては在籍記録がないが、40年以降は「関東州・満州国」を含めて入寮が確認されているなど、侵略戦争下の大陸情勢も反映していると指摘。「戦前の留学生たちの寮生活の全体像は明らかにされているわけではないが、当時の京大や吉田寮は帝国日本の縮図であり、その影響は免れなかった。植民地エリートを育てたのみならず、故国を離れた学生たちが同胞との交流を温める場でもあった」としました。

話題提供の前後に、現寮生が現況を報告し、吉田寮への思いを話しました。

4月入寮の寮生は経済的な理由で下宿暮らしをやめ、「実は住めるらしい」と聞いた吉田寮に入りました。以前は吉田寮への関心はなかったとのことですが、住んでみて「吉田寮の文化、人への思いやりは悪くないなと思った」と話しました。食堂の運営に携わる4回生の寮生は、食堂は「木造の、他にない空間」であり、1990年代以降、大学や社会情勢を反映しながら、その折々で食堂を舞台とした交流が広がっていったことを踏まえ、「(寮と学内、学外が)どのようにつながっていけるか考えている」と話しました。「吉田寮は人を変える力を持っている」ともしました。

京都国際写真展のサテライト企画「KG+」の一つとして食堂で写真展を行った大学院の寮生は、生活や文化において抑圧されている先住民のコミュニティーと、吉田寮は通じるものがあるとし、「しんどいけれど(ここなら)何とか生きていけるという場が日本で失われようとしている」と話しました。「生活が芸術的」「みんな面白い生活をしている」のが吉田寮で、寮生は被写体として魅力的と強調しました。こたつや立て看など「記憶が積み重なっている」ものも集めて展示することで「吉田寮のいろいろな面を見ていだいた」と振り返り、今後も「東大駒場寮」とコラボする写真展などを開きたいと話しました。吉田寮では「KG+」の企画としてケニアのスラムと若者たちを被写体とした写真展も行われました。

現寮生からは、出版が予定されている「京都大学吉田寮-生きている私たちのコモンズ」の紹介もありました。「自然」「住みこなし」「建築」をテーマに寮生と卒寮生、研究者、補修に携わった大工らが寄稿した本で、出版に向けた支援を求めました。

さらに、吉田寮自治会が2024年10月から始めた「教職員ツアー」に職員も参加し信頼関係を作りつつあることや、入寮パンフが縁起物として受験生に人気であることも報告されました。経済的な理由と、吉田寮の文化への関心や共感から、保護者に吉田寮への肯定的な意識が広がっているとのことです。

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